山本譲司『累犯障害者』(新潮社)


・ここのところ、「ろうあ者」のグループと電車を乗り合わせることが多い。何かの集まりから帰ってくる途中、といった面持ちで、何人かで電車に乗り込んでくるのだが、すると彼ら/彼女たちが車内で手話をはじめる。その手話を交わしている様子というのに、いつも違和感(これは批判ではなく)を覚えずにはいられなかった。どうにも「うるささ」を感じるのである。


・もちろん彼らは何も「喋って」いない。だから字義通りに「うるさい」わけではないのだが、電車内で携帯電話を使われると、どんなに小声で喋られようが耳に障る、あのときの違和感に近いものを感じていたのである。


・車内で使われる携帯電話が、なぜどんなに小声であっても耳に障るのか。それについては確か大澤真幸がかつて分析を加えていた。電車に乗り合わせた客は、ひとつの場を共有することを通じて、広い意味での「社会」を緩やかに形成している。すなわち、暗黙のうちに、ふるまいのコードを共有している。そうした電車内で携帯電話を使うことは、その「社会」にとっての外部に一人でアクセスをしているということにあたり、そこだけぽっかりと「社会」に「穴」を穿つことを意味する―そんな内容だったと記憶する。


・おそらく、車内の「手話」とは、携帯電話での会話と同様、電車内に構築されていた「社会」にいきなり闖入してきた「外部」である。それゆえ私たちは、「ノイズ」性の強度に「うるささ」を感じるのであろう。しかしよく考えてみれば、「手話」とはまさに、私たち健常者の有しているそれとは異なる「言語体系」としてあった。付け加えれば、生まれつきのろうあ者の用いる手話とは、日本語対応の手話、すなわち健常者が学習しうる「手話」とはまったく異なるのだそうだ。この事実を、僕はこの本ではじめて知ったのだが、あの「うるささ」について、はじめて得心した思いがした。


・誤解をされると困るのだが、だから私は「電車内で手話をするべきではない」などと言いたいわけではない。ただ、私のような「健常者」と「ろうあ者」との間に「他者性」の溝が深く刻まれていること、そのことを心に刻み込んでおくべきだと思う次第なのである。これは「ノーマライゼーション」の思想と相反する気がしないでもない。いかしいたずらに同質性に回収するのではなく、「差異」は「差異」として尊重することが「共生」の第一歩としてあるべきではないか――かなり一般論に過ぎる結論になったな。


・刑務所の収容者の三割が「障害者」であること、そしてその「障害者」にとって「刑務所」こそが最高の福祉施設になっていること、その事実は私たちを驚かすに余りあるだろう。また、『新潮45』的な犯罪ルポ的な文体もなかなか読ませる。中でも、ろうあ者同士の不倫殺人は、彼/彼女たちにとって「尊厳」とは何かを考えさせられずにはいられない。「尊厳」とは「近代」になってはじめて成り立った思想である以上、決して絶対的なものではない――そうした相対化が、思いのほか身近な「他者」に突きつけられているのではないか――。とにかくいろいろ考えさせられる一冊であった。


累犯障害者

累犯障害者