青山真治『死の谷’95』(講談社)


・一郎という兄が弟の次郎に妻の浮気調査を依頼する場面から物語が始動し、その物語は手記の引用で幕を降ろす。冒頭で夏目漱石の『行人』に対する言及がある点からも明らかだが、この小説の全体の構成は『行人』を転用したものであるといえる。だがそうした大枠にとどまらず(ちょっと前に読み終わったのでうろ覚えなのだけど)、短編連作という形式になっていること、モチーフ、文体のニュアンスといった細かい部分にも漱石的なオーラを感じさせた。具体的なテキスト名を挙げると、『彼岸過迄』を思い出させたのである。


・この人の小説は随分と前に『月の砂漠』を読んで以来なのだけど、その頃は明らかに破格な日本語をあえて狙った文章であったが(中上健次の影響を受けてのものだろう)、この新作では癖の強さが抜けていて、随分と読みやすくなっているように感じられた。


青山真治の映画が既にそうなのだけれど、この人は日本的な「地方」を描かせると本当に上手いと思う。ぶっとい国道が街を貫いていて、ボーリング場とパチンコ屋とラブホテルしか娯楽施設がないような、そういうどこにでもありふれた「地方」の殺伐さが、この小説でもリアルな質感を持って読者に浸り寄ってくる。


漱石という「古典」的な作家の手法が、いかにも現代的な小説であるこの作品とうまくブレンドされている。その点を踏まえると、この作品は、漱石という作家の奇形性もうまく浮かび上がらせているとも思う。『こころ』も『彼岸過迄』も『行人』も、近代的知識人の苦悩という、お決まりのフレーズには収まりきらない形式的な過剰さを持った作品だといえると思うのだが、おそらく今後漱石という作家を文芸的な世界で「生かす」ためには、このへんの過剰さをどう再評価して引き継いでいくのかというところにあるのではないか。そんなことも考えさせる作品でもある。奥泉光の文体模倣はもういいから、といった感じで。



死の谷’95

死の谷’95