中村文則『土の中の子供』(新潮社)


・第百三十三回芥川賞受賞作。この作家の作品、実は丹念に追っていたのであった。デビュー作から単行本化しているのはほとんど読んでいるはず(と言っても、これで三冊目なんだけど)。デビュー作の『銃』も二作目の『遮光』も、どちらも芥川賞にノミネートされていた。


・一作目の『銃』と二作目の『遮光』は同じモチーフの繰り返しで、そのへんを二回目のノミネートにおける選評の際、確か石原慎太郎にツッコまれていた覚えがある。『銃』であればピストルを、『遮光』であれば死んだ恋人のホルマリン漬けの足の指を、意識せずに手に入れた男を主人公として、それによって生起する心理的な変調を丹念に辿った小説であった。ちなみに、ピストルも足の指も、それぞれの作品において、象徴論的なレヴェルで「ペニス」として捉えることが出来るのは言うまでもない。


・というわけで、この作家の関心の第一は心理であると言える。そしてここが、この作家の最大のウイークポイントであった。いや、作家であれば人間の心理に関心を持つのは当然ではあるのだが、だがしかし「心理」にしか感心がないというのは、やはり問題だ。作家としての技量の問題なのかあえてそう狙ったのかはさておくにせよ、両作ともに現代的な風俗や具体的な場の景観というのを相当に捨象した形で書かれていて、小説の空間の抽象的なありように、読者として風通しの悪さを感じざるをえなかったのである。


・残念ながらその点はこの作品においても変わることがなかった。基本的な描写をもっと学んだ方が良い、などというとあまりに偉そうだが、編集者はこの作家が作品にとりかかる前にもっと取材をさせるべきではなかったか。主人公の従事するタクシー運転手の仕事振りにも子供時代を過ごした養護施設にしろ、細部をあまりに欠いた描かれ方がされているので、およそ説得力がない。そのため、読んでいてメリハリがなく、文章の読みやすさに比して、思いのほかページが進まない。


・「現代人の知るべき情報が書かれているかどうか」というのを小説の評価のポイントとしているのは最近の村上龍である。まあ村上龍のここしばらくの小説の中に書き込まれた「情報」というのがあまりに陳腐で、読んでいて嘆息してしまうのもこれまた確かであるにせよ、小説の中に書き込まれたある種のトリヴィアルな「情報」というものが、その作品に対する読者の関心を惹きつけることになるのは確かな話であると思う。


・一例を? そうだなあ。例えば松浦理英子の『ナチュラル・ウーマン』。あの小説に出ていたスチュワーデスのセリフで、国際線の度重なるフライトで体内のリズムに狂いが生じてスチュワーデスは生理不順になってしまいがちとかそんなのがあった覚えがあるが、これなんか読んでいて、へぇ、なるほどなあ、と思った覚えがある。「細部」に対する繊細さという、作家が第一に持っておくべき資質というのは、結構こういう些細なところにあらわれるものなのであり、そしてまた、それが作品におけるリアリティの強度や、文体の緩急に繋がるものなのである。ただでさえ主人公の心理ばかりに焦点が当てられて息苦しい小説なのだから、こうした「細部」への配慮というのは絶対に必要だったはずだ。もっとポリィフォニック(バフチン)に小説を編んで欲しい、とまでは言わないから。


・先に文章が読みやすい、と書いたが、実はこの点が評価できるかどうかは何ともいえなかったりする。意識と、無意識の中に蠢く衝動との葛藤が作品の基調となっているのだから、もっと文章は破格で良いはずだ。設定されたテーマに対して、文章が滑らかに過ぎはしないか。


・ただ、次の箇所なんかには、ある種の「小説」らしさを感じた。


私が(養護施設に・引用者注)いた頃も、こういう人なつっこい少年がいた。正確な名前は思い出せないが、皆からトクと呼ばれていた。彼は外部の人間が来る度にあいさつをし、質問にもハキハキと答えた。だが、それは自分を引き取って欲しいという打算的なものではなく、今思えば、施設にいる自分でもこうやって明るく人と接することができるのだという、彼のプライドからきていたような気がする。彼は私の、ものを落とすという行為を注意し、時折力づくで止めさせた。そういう時、彼は自分に言い聞かせるように「それじゃあ思うつぼだよ」と言うことが会った。「不幸な立場が不幸な人間を生むなんて、そんな公式(彼は時々、奇妙な言葉の使い方をした)、俺は認めないぞ。それじゃあ、あいつらの思い通りじゃないか」(68ページ)

・「(彼は時々、奇妙な言葉の使い方をした)」というのは明らかに余計だが、「公式」とか「それじゃあ思うつぼだよ」などといった、このへんの言葉遣いはなかなか良い。ちなみにここでの「あいつら」は、特定された誰かを指示しているわけではない。そういう不特定多数の誰かにのことについて、「思うつぼ」という言葉を用いる(通常、「思うつぼ」という言葉を用いる際は特定の人物を意識しているはずだ)ことと、そのあとにくる「公式」という言葉の遣い方とが、言語感覚の歪みという点できちんと見合ったものになっていて、思いのほか「トク」という登場人物のキャラクターに厚みが生じているのである。


・このへんのテクニックをもっともっと伸ばせば、なかなかの作家になれる可能性は秘めていると思う。抽象的な空間を舞台にモノローグ的な文章が続き「息苦しい」とは言ったが、思えば初期の大江健三郎だってそんな感じだったわけだから、精進してほしい(って何様だよ・笑)。


・ちなみに、『銃』と『遮光』の二作が「ペニス」に対する歪んだ意識をモチーフにしていたとすれば、この小説と併載された「蜘蛛の声」との両作とも、モチーフは「胎内回帰」。徹底してフロイトです。




土の中の子供

土の中の子供