『カナリア』

・『週刊文春』の映画評では『誰も知らない』との類似が指摘されていたが、「脱社会的存在」(宮台真司)は「社会」とどのように関係を結べるのか(あるいは結べないのか)という問題意識が通低している点において、むしろ比較すべきは青山真治の『ユリイカ』ではないか。


・「脱社会的存在」を「社会」が受け入れることの(不)可能性を『ユリイカ』は静謐さ溢れる筆致のもとで描いており、その静謐な筆致ゆえに「社会」に対して根深いところで批評性を持つことはない作品であった(これは『ユリイカ』を貶める評価ではない。あの静謐さこそ、『ユリイカ』最大の魅力であるのだから)。


・それに対し、『カナリア』は「脱社会的存在」に対してのみならず、「社会」に対する眼差しも深いものであり、射程の広いものとなっている。すまわち、「脱社会的存在」と「社会的存在」が互いの像を写し合う関係になっている今日の社会全体のありようを、しっかりと見据えた作品になっているのである(「カルトの子供」を見捨てた光一の祖父の存在、「市民」による祖父一家の排除に注意せよ)。


・この鏡像的関係による「暴力」の連鎖をどう断ち切るか。その「倫理」の指し示し方においても、この映画の観点は実に興味深いものである。「凶器」(映画ではドライバー)をとりあえず落としてみるということ。それによってしか、「暴力」の連鎖を断ち切ることは出来ないのだということ。


・いや、その点についてはもう既に多くの人々が気づいていることである、ということになるのかもしれない。とは言え、私たちがさらに考えを進めなくてはならないのは、今日、「暴力」の連鎖を断ち切ろうと心を砕いている人々も、やはり、「凶器」を放棄することに「正しさ」などといった「理念」を求めてしまっている、という点についてであると思うのだ。


・だがしかし、「正しさ」とは何であったか。そう。「オウム真理教」(映画内では「ニルヴァーナ教団」)が徹底して追求していたもの、そして、「脱社会的存在」を排除しようという「市民」的な「善意」が強く憑かれてしまっていたのも、まさに「正しさ」ではなかったか。


・映画のラスト近く、光一がドライバーという「凶器」を床に落とす場面は、「暴力」が放棄されている場面だとは思えないほどに実に痛々しいものである。麗しく聞こえのいい「正しさ」などといった「理念」とはきっぱりと切り離されてしまった、なんと寒々しい風景での「暴力」の放棄であることか。だが、この寒々しさに耐えるのを超えた地点にしか、今日、「暴力」の連鎖の切断という事態は望めないのではないか。おそらく、『カナリア』の示唆するところとはそのようなものであり、そしてその示唆は、ラストシーンの兄妹再会の祝福感に華を添える以上の強い意味を持っているものだと感じさせた。