「GOOD DREAMS」


大江慎也のダウンに過剰な意味を見出すのは避けるべきだ、ということがしばしば言われる。こちらも、その考えに一定の理解ができないというわけではない。しかし、(最初の)ダウン以降の大江が、畏れを感じさせるほどに表現的な深化を果たしていったことに間違いはなく、例えば、世評の高い「C.M.C」のみならず、「Sad Song」や、このアルバムのタイトル・チューンである「GOOD DREAMS」の歌詞というのは、日本ロック史において屈指のものだと思うのだ。臨界点にまで行き着いてしまったと言ってよいほどの、そういう高みにあるものではないか。そのことは何度でも確認しておくべきであろう。


どよめく海に 抱かれて
君のことに 思いをはせる
不思議な魔法にかかったみたい
僕の胸は高なり ざわめく
この世界が朽ち果てるまで
心が僕を動かし
めくるめく波間に漂って
僕のそばまでおいで

君はこの夜を素敵に色どらないかい
君はこの街を美しく塗りこまないかい(「GOOD DREAMS」)


あの娘のおもかげが
とめどなくあふれだし
うすぐもった胸を
真白に 塗りつぶす
水しぶきが岸を超え
君の顔にふりかかるころ
僕はふるえる 霧靄をしずめ
この胸ははりさける(「Sad Song」)

・この時期における大江の歌詞には、「海」、「波間」、「水しぶき」、「霧靄」というふうな、「水」をイメージさせる語彙が多く用いられていることに大きな特徴がある。パシュラールのイマジネールについての分析によれば、「水」は「不安定さ」を象徴するということだが、「GOOD DREAMS」や「Sad Song」の世界観もやはり、「脆さ」、「儚さ」という言葉を想起させるものであった*1。だとすると、ここでは、世界観のセンシティブさと言葉そのものの詩的強度とが極めて有機的に結びついた関係になっている、ということになるだろう。日本のロックの世界において、歌詞表現の高みがここまでに達した例を、寡聞にして私は知らない。


・「詩的」という言葉をいま用いたが、その点に関して付け加えれば、日常的な言語運用に対して異化作用を働きかけるような言葉遣いが多く見て取れることも併せて指摘しておくべきだろう(「Sad Song」における「真白に 塗りつぶす」など)。「オレはただあんたと ヤリたいだけ」と、ナマナマしくおのれの欲望を吐露する直截さを身上とした大江の歌詞は、数年でここまで変化したということになる。


・頂点に達した「才能」が、その後までずっと、同じ「才能」を保証しつづけてくれるとは限らない。大江がこの後のアルバム「PHY」で歌詞をほとんど書かなかったこと、またソロ活動において歌詞のほとんどが英語になったことを思うと、そうした世の真理を想起せずにはいられない。それは「才能」を持つ者が背負わなければならない「業」のようなものなのだろう。だが、その「業」と引き換えに、「才能」とは最も光り輝くというのも、また厳然たる真実であるのだろう。いまなおルースターズは、活動期の輝きを失うことなく、多くのバンドがらリスペクトされ続けている。だが、こうした大江の歌詞世界に着目されることは、決して多くない。それは非常に残念なことだと思うのである。



GOOD DREAMS(紙)

GOOD DREAMS(紙)

*1:「その体にふれたとたん たじろいで身をかたくする」「あの娘」について歌う「Sad Song」。「夢」という、実体としてないものを強く希求する「GOOD DREAMS」。