さらば、わが愛

チェン・カイコーの『さらば、わが愛 覇王別姫』久しぶりにDVDで鑑賞しました。


・日本統治時代、終戦期の混乱、国民党政権の台湾逃亡、共産党時代、文化大革命期。そうした中国現代史の流れの中で、運命に逆らうことの出来ない京劇役者(とその妻)たちの悲劇を描いた作品。そんな偶然の再会あるかなあ?!、という箇所も続出ではあるんだが、三時間近いのに飽きさせることのない重厚な作品であるのは間違いないと、改めて感じた。


レスリー・チャン演じる程蝶衣(女形)の段小樓(立役者)への同性愛的な感情や、二人の京劇役者としての演劇観の違いというのを軸に、物語は展開する。程蝶衣は自らを役柄に隙間なく同一化させるが、それに対し段小樓は、生活は生活として確保しながら舞台に登る、という生き方を選択する。その対立は、単なる価値観の違いに止まるわけではなく、段小樓が結婚したのを期に微妙な感情の行き違いが生じた、ということでもあって、一筋縄ではいかない人間の心理の描き方に関しても、実に繊細なものであると思う。


・久しぶりに観て発見したのは、程蝶衣が自らのジェンダーセクシュアリティを越境していく過程の描かれ方である。冒頭部分の程蝶衣の六本ある手の指が切られる箇所が、去勢の暗喩になっているということは最初に観た際に気づくことが出来たが、そのしばらく後に、台詞を覚えられない程蝶衣に、段小樓が罰として煙管を口に突っ込んで掻き回す、という場面がある。この罰を受けることによって、程蝶衣は妖艶極まりないアウラを身に纏いながら台詞を完璧に言えるようになるという展開なのだが、これがセックスの暗喩になっているということについて、遅ればせながら気づくことができた。煙管は段小樓のペニスの象徴であり、このペニスを受け入れることで程蝶衣は「女」になる、というわけである(煙管を口に突っ込まれて、程蝶衣が口から血を流すことに注意せよ。あたかも処女を失ったかのようではないか)。そのような過程で「女」となった(=「女形」としての自己生成を果たした)以上、程蝶衣が自らと自らの役柄を同一視するようになるのは当然である、ということになるだろう。こういう細部の意味に気づくことができたのは、再び鑑賞した甲斐がある、というものである。


・それにしても、レスリー・チャンは美し過ぎである。


さらば、わが愛?覇王別姫 [DVD]

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