春みたい(頭が)・その2

アルチュセールの概念に「不在の原因」というのがある。諸記号の複合によってテクストは構造化されているわけだが、その諸記号の明示的なあらわれに着目するのではなく、「それ」がないことによってこそテクストは構造化されているのだ、というふうに考えて、「それ」の抑圧の力動をテクストから炙り出すという、まあ、一種の発想の逆転である。偉い人はだいたい同じことを考えるもので、この発想は、ラカンの「対象a」とかポパーの「反証可能性」とか、ゲーデルの「不完全性定理」とかに通じるものがある(ホントか?)。


・ただこれ、自戒の念を込めていうけど、素人さんが使うと結構難しい。「それ」がないことは「それ」に対する迂回的な抑圧である、っていう構文で論理が構成されていて、まあ筋は通っているわな、ってのは確かではあるんだが、でもこちらとしてはそう言われちゃうとどこにも逃げ場がないよなあ、って感じ。


・要するに、下手をすると、一種の言い掛かりになるのである。最悪なタイプのポスト・コロニアル批評がこのパターンに陥りやすい。ごちゃごちゃとオマエは今さらながらにテクストがどうしたこうしたと言っているけど、それはオマエがいかに抑圧されている人々のことを考えていないかのあらわれなのだ!、みたいな。


・冗談みたいな話だけど、こういうこと、研究会とかでよく言われたものですよ。T大の人とかに。権力者としての自らの無意識的な抑圧にもっと意識的たれ、っていうわけなんだよね。そりゃあT大の院生の方々は、「権力者」でございますよねえ。アチキのような弱小私大の院生とは違うわけでございますよね。でもなんかその物言い、「総括」の「総括」みたいな感じじゃございません?「粛清」ですな。わっはっは。


・みたいなことが言えれば良かったのだが、まあこちらもそこまで肝が据わっておらず、へえ。と頭をただ垂れるのでした。だって向こう、「意識的たれ!」みたいなこと言いながら泣き出したりするんだもんよ。ホント、浅間山荘みたいだったよな、と思う。


・でも、随分と辛辣なことを書き連ねてきたけど、別に恨みを持っているわけではない。あれはあれで僕の中での「政治の季節」だったのだ、とそれこそ「総括」しているのだ。


・話を戻す。「不在の原因」という発想のもとでテクストを分析するとき、一番重要になる手続きは、「それ」が「不在」であるという事実を見い出す、ということではない(そこにないものは、何だって「不在」だ)。「それ」が「抑圧」されている力の痕跡をいかにテクストの細部から救い上げることが出来るかという点にこそ、「不在の原因」という発想のもとで有効なテクスト分析ができるかどうかが掛っている。


・繰り返しになるが、最悪なタイプのポスト・コロニアル批評、もしくは文化研究は、あからさまに「ない」ものを「ない」と鬼の首でもとったかのように言い連ねたり、あからさまに「ある」ものを「ある」と言い連ねたりする、などといったパターンに陥りがちだ。そこには、テクストの言葉の蠢きに対する繊細さが欠如してしまっている。その繊細を接ぎ木できるかどうかに、いささか行き詰まり気味の文化研究やポストコロニアル批評を更新する鍵があるのではないだろうか。

・ってことになるんだが、この困難さって、原稿の規定枚数という制限で難しい、というまことに散文的な困難があるんじゃないでしょうか。まあそんなことを考えましたです。