春みたい(頭が)。

・インターテクストの空間とは、そこに属する様々なテクストが互いに影響を及ぼしあう場としてイメージするための操作概念である。それをどういう構図で描くかは、論者の立場選択の問題に属する。言い換えれば、相対性に委ねて良い問題に属する。

・仮に、同質性の原理に基づき諸テクストの絡まり合いをイメージしてしまうとどうなるか。因果の系によって整理された連関図がそこでは描かれ、場にあった(はずの)ダイナミズムがきれいに捨象されてしまうだろう。その場合、論者の政治性に対する無頓着ぶりが厳しく責められるのだろうが、問題はそんな難しい話にあるのではなく、そこで描かれた構図があまりに退屈なものに過ぎない―それだけの話であるはずだ。ありていに言って、「作品Aの作品Bに対する影響関係」などといった、古臭いタイプの比較文学論と選ぶところがなくなってしまう。

・必要なのは、テクストが<異物>を外部へ<排除>し<統一>性を確保しようとする運動をきちんと捉えること、である。そのテキストの運動が他の諸テクストにどう影響を及ぼし、また、他の諸テクストの同型の運動がそのテクストにどう影響を及ぼすか。そのダイナミズムを暗示する形でインターテクストをイメージすること。そのとき、インターテクストの空間は、静態的なものではなく動態的なものとして描かれることになるだろう。

・さきに、<統一>性といったが、それはテクストの<純粋>性の謂いではない。面倒くさいので相当端折るが、<統一>性を図るテクストの力動は、<純粋>性を志向したとしても、(にもかかわらず、と言うより)それゆえに必ず<排除>したはずの<異物>を召還せざるを得ない。「抑圧したものが回帰する」という、アレである(だからその回帰は、テクストの抑圧の痕跡に宿る)。無論テクストはそこに宿る<異物>を再び排除しようとする・・・。この運動をどう捉えるか。テクストを異種混合の場として捉えるのと同時にどう<統一>的なものとして捉えるか。

・いきなりしゃべり口調になるけど、ここって論者の問題設定とか思考の強度如何によって捉えられることがあったりなかったりする以上に、論者の文体の問題が結構関わっているように思う。最近そう思う。思いつきで言うけど、岩井克人の文体。あれは結構捕捉しやすい文体になっているんじゃないか(って、あの人、十年一日同じことをしているわけだが)。なんでこんなこと急に言い出したかって?暖かいからですよ、最近。暖かいと道歩きながらぶつぶつつぶやいている人いるでしょ?アレと一緒。タダの垂れ流しです。(←自虐)