良いクリスマスを!

・スタジアムで実施されるスポーツの開会式で、北島三郎とか松田聖子とかあややとかエロカワの教祖なんかに国歌を独唱させる、という場面にしばしば遭遇する(適当に名前を挙げたから、固有名には事実誤認があるかもしれない。そのへんはスルーの方向で)。あれについてから話を始めたいんだけどさ。


・オイラ、結構右っぽいところあるから、なんか「君が代」を汚された気分がして、テレビで中継を見ていたりすると、すっげえ嫌な気分になるんだよね。でも、しばらくすると、まあ、こういうオマヌケな「君が代」っていうのが、まさにニッポンをジャストフィットな感じで象徴している気がしてきて、諦めの気分になるんだ。


・ここで言う諦めっていうのは、決して全面否定に通じるものじゃない。自分の「ふるさと」が、みっともなくて、汚くて、マヌケなものにしか過ぎないのだ、というある種の諦念ではあるのは確かだ。だけど、そのみっともなくて、汚くて、マヌケな「ふるさと」をまるごと受け止めることこそが「愛」なんだ、とも思わずにいられなくなるんだよ。


・分かりにくい話だ。吉田秋生に『河よりも長くゆるやかに』っていうマンガがあるだろう。あそこに、上流で綺麗に澄んでいた川は、下流になると色んな汚いものが混ざってしまって、川幅も太くなりゆるやかに流れていくことになる、オマエはどっちが良い?みたいなセリフがあったという記憶がある。アレに近い。


・って、よけい分かりにくくなったかもな。そうそう。若いとき、親戚の集まりで酔っ払った父親の醜態を目の当たりにした気分。アレに近いと言ったらまだ分かってもらえるだろうか?全身が震えるくらいの怒りを覚えるのだけど、あ、結局自分もいつか辿り着いてしまうのは、この「みっともなさ」なんだろうなあ、という予感が不意に胸を過ぎる。あの感覚だ。


・今にして思えば、あれはオイラなりに「父」なるものを受け止めたということなんだと思う。そして、そのアンヴィヴァレントな感情を伴う以外のやり方で、「父」という存在を受け止めるやり方があるとは、オイラ全く想像できない。


・「父」を受け止める、すなわち「父」を「愛」するということ。それはそのまままっすぐ、「国」を「愛」するということに通じるわけなんだけど、この引き裂かれた感情のもとで対象をまるごと受け止める、っていうことこそが、何かを「愛」することなんじゃないか。オイラはそう思う。


・世間の「愛国心」の議論が本当に吐き気を覚えるくらいに我慢ならないのは、「愛」するという営為に常に付きまとうこのアンヴィバレントさを、複雑で面倒臭いから、みたいな理由で、まっすぐに見つめようとしていない風だからなんだよね。


・「愛国心」の涵養を云々する前に、オマエにとっての「愛」の貧しさとか脆弱さをどうにかしておけよ、みたいな。オマエにとっての「愛」ってホントに「愛」なの、っていう言い方するとトバシ過ぎなのだが、いやまあそんな感じだ。


・結局ね。オイラたち一般ピーポーは、どんなオシャレに着飾ったりメイクに凝ったり雰囲気の良いレストランを知ったりしたところで、結局はブスな嫁とかブサイクな夫と連れ添うしかないわけじゃないですか。


・でも、その目を覆いたくなるような伴侶を、にもかかわらずなのか、だからこそなのか、それはよく分からないんだけど(オイラは独身だからね)、まるごと受け止めていくってことが「愛」なんじゃないのか。


・「国に誇りを!」とか声高に言うなバカ。「国」を「愛する」ってことは、「随分と太っちゃったよなあ」という嘆息の混じった気持ちで、オマエがヨメを「愛」しているのと同じ程度で「愛」するので十分なんだよ。「愛」なんて、散文的な日常の中にしかないものなのだから、それ以上でもそれ以下でもないの。


・今日はクリスマス・イヴなんだね。世界中が「愛」で満たされますように。これ、皮肉でもなんでもなく(ただいまオイラはお部屋の大掃除中なのです)心からそう願っている。


・メリー・クリスマス!