バルサンを焚く。

・最近マメに自炊をしているのです。

・色んなものを作った。トマトと豚肉にカレー粉をまぶした炒め物(平野レミのレシピを参考にした)なんか、なかなかの出来だったよ。ただ、生ゴミの処理が甘かったから、最近ちっこいハエがちょくちょく台所に飛んでいたんだよね。ちょっと嫌ではあった。でも、フジロック後遺症の一つとして、食い物に土とか虫がくっついてもあまり気にならなくなっていたというのがあって、ちょろまか飛んでいるハエも、まあ夏の風物詩ということで受け入れていたのだよ。ゴミ袋を寝る前にぎゅっと縛ったり、生ゴミを丁寧に水切りしたりとか、面倒臭いじゃんよ。

・一回ここで話は飛ぶ。最近昭和ブームとかいうのがあっただろう。アレがオイラ、どうにも気にくわねえんだ。

・いや、オイラだって例えばレトロな建築物はとても好きだ。この間の日曜も、中華街に行った帰りにニューグランドホテル旧館に寄って、いったん西洋を通過して逆照射される形で構築された日本の「逆オリエンタリズム」(このサイードの用語の使い方って正しいかな?)の真骨頂を、存分に満喫してきたところだ。これはこれで良い。

・だけどなんつーの?横浜ラーメン博物館(行ったことないけど)とか映画『三丁目の夕陽』(観ていないけど)みたいなさ、ああいう「レトロ」趣味には虫唾が走るわけだ。

・考えてもごらんよ。昭和三十年代の「ラーメン屋」とか「東京の町並み」が、あんなデオドラントされた空間であるわけはないだろう。ラーメン屋の天井からはハエ取り紙がぶらさがっていて、それでもなおハエがぶんぶん飛んでいたはずだし、生ゴミの腐りかけた匂いと豚骨をぐつぐつと煮る匂いが混ざった、今のオイラたちが店の暖簾を潜ったとすると即座に吐き気を覚えるような、そんな臭気が店内には漂っていたはずだ。住居空間だって似たようなものだったに違いない。

・でも、回顧された「懐かしさ」はいつだって、そういう生き物が抱え込まざるを得ない「生々しさ」を捨象する。言ってしまえば虚偽の産物だ。もちろん、「懐かしさ」はいつだってフィクションだから、そこに虚偽がこびりついてしまうのは原理的に仕方がない。だけど、最近の懐古趣味は、いくらなんでも自分達のまなざしが何を無視することで成り立っているのか、自省が足りなさ過ぎている気がするんだ。批評意識が欠如し過ぎている、と言っても良い。

・そういう現状に否、を突きつけるべく、オイラは生ゴミの処理を甘くする。ハエを台所に飛ばす。まあ、そういう理論武装(笑)も済ませて不精を決め込んでいた、のだが。

・いや、もう無理だ。と今日思ったのです。いくらなんでもコリャ限界だ。昆虫の館じゃないんだから。と今朝ゴミ箱を開けた瞬間悟ったのでした。

・つーわけで仕事に出る前、バルサンを焚いた。ゴキブリにしか効かない(不思議なことにゴキブリは全然出ないのです)と思っていたら、これがなかなかどうして。帰ったら全然ハエさんたちの姿がないのですよ。流し台にはハエの死骸らしき小さな粒々があっちにもこっちにも。すげーバルサン!

・週末からのロンドン旅行に出る直前にももう一度焚きます。

・害虫の絶滅を誓う終戦の日(字余り。しかもブラックがちょっとキツイか?)