「エージェンシー」?それ旨いのか?

・久しぶりに「国文学 解釈と鑑賞の教材」(学燈社)を買ったんですが。漱石特集だったもんで。


・で、そこに石原千秋氏が上野千鶴子の近著についてまとめていました。


・石原氏によると、「アイデンティティ」にという概念にご破算を付き付けた上野千鶴子が、「脱アイデンティティ」以降の概念として新たに推し進めるているのが、「エージェンシー」であるらしい。「エージェンシー」とは、「「主体化」とは、言語という他者の秩序への従属化を意味する」というラカン理論を踏まえたものなのだそうだが、以下は石原氏からの引用。



しかし、上野はその先に論を進める。ラカンの言う「言葉」という「象徴秩序」に参入した者は「父の法」と同一化したものであるが、それは男であって、そこには女はいないと言うのだ。そこで上野が援用するのは、バトラーの「エージェンシー」という概念である。「「主体が語る」のではなく、「言語が主体を通じて語る」媒体が、エージェンシー」である。つまり、エージェンシーという概念を採用することによって「一方で「まったき能動性」でもなく、他方で「まったき受動性」でもないような、一つの言語実践の媒体を想定できるようになった」。(p、45)


・いや、よく分からないんですが。


・ちょっと待ってくれや。「エージェンシー」という概念の説明がこのまとめで正しいのであれば、「エージェンシー」という新たなカタカナ語を持ち出すメリットって何なのよ?おそらく、性差の問題を新たな視点から問い直す概念となる、というところにメリットがあるとか言うんだろうけどさ、「「まったき能動性」でもなく、他方で「まったき受動性」でもないような、一つの言語実践の媒体」という概念が、性差の問題とどうリンクするか全然分からないのよ。


・「まったき能動性」でもなく「まったき受動性」でもないという「主体」あり方というのは、言語の秩序に従属する「主体化」のありよう全般の説明であって、つまり性差に関わらず人はこのような形で「主体化」するんじゃないの?ってことなんだけどさ。「想像界」から断ち切られて「象徴界」に入るというのは、そういうことだって、ずっと昔にラカン先生が言っていたような気がするんだよね。もっと専門用語を使ちゃうと、「エージェンシー」という概念って、何か最近偉そうな顔しているけど、ラカン理論における「主体」に斜線記号が引かれた状態というのとぴたりと重なるんじゃないの?隙間もなく、またはみ出す部分も全くない重なり合い方で。


・もっと分かりやすく。我々が何かを喋るときに用いられる語は、常に既に誰かによって語られた語である。その意味で、我々の言語実践とは、他者の「言語」を引用することに他ならないわけだが、その観点からすると、我々の言語実践には「受動性」の烙印が押されている。だが、にもかかわらず、我々は言語を用いて日々創造行為(別に小説書くとか誌を書くとかじゃなくて、仕事の書類から夕飯の買い物のためのメモ書きまでも含めて、要するにあらゆるタイプの言語テクストを練り出すことを便宜的にこう言っときますが)を行っているのだから、その観点からすれば、我々自身に「主体性」というのがあることを認めることができる。


・つまり、言語を用いるということは、常に既に、主体的でも受動的でもあるような実践なわけである。・・・こういう当たり前の話と、「エージェンシー」って何が違うの?言葉喋っていればエージェンシーになれるの?それにそもそも、象徴秩序に「女」は入り込めないって言うけど、じゃあ僕が今日話した女の子は、言葉使っているのに言語の秩序に入れていないわけ?それともそれは男性化した女性であるってこと?じゃあ、そういう秩序から逃れることって、言葉喋んないのが一番早いってことにはならないの?もーう。よく分からなああああい。誰か教えてチョンマゲ。