「格差」と「貧乏」

・「格差社会」っつーのが流行語になりつつある。「勝ち組」/「負け組」とかいうカテゴリーにおいて、一度片方に属しちゃうとずっとそのまま、みたいな社会になりつつあるということなんだろう。なるほど。都心の一等地にガンガン超高級マンションが建てられている一方、冴えない暮らしを送っているオイラくらいの生活の者どもは皆、口を揃えて「生活が苦しい」と言っているわけだしなあ。だけどオイラ。この「現代は格差社会」っつーディスクールはどうにも気にくわねえ。



・「社会」の「格差」が広がりつつあるようですとか言って、テレビ番組なんかで「格差社会」と「総中流社会」どっちがいいですか?なんてアンケートを下々の連中にしていたりするけどさ。なんだよ「総中流社会」って。以前の日本は「総中流社会」で現代の日本は「格差社会」になりましたと、そういうことが言いたいみたいだが、ちょっと待てや。いったいいつ日本に「総中流社会」なんて時代があったんだ?



・だってオイラは子供の頃、結構都心のど真ん中に住んでいたんだが(もう二十年以上前のことか)、クラスに何人か、すげえ貧乏な奴がいた。シャレにならないくらい貧乏だった。一度その中の一人の家に遊びに行ったこともあるんだが、まあいわゆるバラック小屋というやつだ。狭いし汚いしそいつのオヤジは平日の昼間からゴロゴロしているし、すぐに外に出て遊ぶことにした記憶があるんだが、まあともかく、絵に描いたような「貧乏」っつーのは、オイラが子供の頃にもあったってことだ。あれは「格差社会」とどう違うんだ?



・ただ今にして思えば、「貧乏」という言葉はその頃に知っていたけど、そいつの家を「貧乏」とかそういう風には思わなかった。いや、たぶんそうじゃない。それは間違いなく「貧乏」だったから、「貧乏」とわざわざ名指す必要がなかっただけだったという気がする。別にその友達に気遣ったわけじゃない。当たり前のことだからいちいち口に出さなかった。それだけのことだったはずだ。


・そう考えると「貧乏」という言葉で表現すべき事象というのがなくなった気がする。例えば話が飛ぶが。よく「幼児虐待」なんかでとっつかまった家の映像をテレビニュースで観ると、「うわあ。生活苦しかったんだな」っていう感じがして、「まあ要するに、親の愛というのは本能的なものではなくて、文化/階層的な慣習であるということですな」とか思ったりするんだが、でも、ブラウン管に流されたそのイメージは「貧乏」という言葉にはそぐわない。なにかそこには、殺伐としたオーラが漂っているのだ。


・いや、昔の「貧乏」だって殺伐としていた場合もあっただろう。しかしここにイメージの断絶を認め、その新しい段階を別の言葉で―例えば「格差社会」という言葉で―呼ぶことは構わないと思う。「格差社会」の本質って、「一億総中流社会」っていうのと同様、こういうイメージとか記号の社会的な価値とかの問題なんじゃないか。「経済」の問題に還元すると、大きなものをこぼしちゃうんじゃないか。そんなことを思うわけだ。