四方田犬彦『「かわいい」論』(ちくま新書)


・「かわいい」と名指すということは、そのように言及されるモノ(ヒト)の属性に従った分節化だと言うよりも、「これかわいいね」「ホントだ。かわいいね」という、なんというかここだけ書くと小津映画の会話みたいだが、それはともかくとして、自分たちが感性を共有し合っていることを確認するという機能を果たしており、すなわち「かわいい」とは、若い女性のためのコミュニケーション・ツールとしてある語だと、四方田は考える。


・だから、「かわいい」/「かわいくない」を区分する境界線を言語的に明確にさせようとするのではなく、「かわいい」とされるものの周囲をぐるぐると回ることで、「かわいい」の輪郭を浮かび上がらせようという戦略が摂られる。その結果、「かわいい」と「グロテスク」が薄い皮膜一枚で区切られたものであるして、最後にそれを端的に象徴するテキストとして「グレムリン2」について言及される。全体の流れは、そんな感じである。


女性誌に対する緻密な分析が冴える第七章「メディアのなかの「かわいい」」が刺激的だった。こういう記号論的な分析の手さばきはこの人の十八番だと思っていて、でも最近の著作ではあまり観られないものになっていたからちょっと不満が続いていたんだけど、先の「かわいい」と「グロテスク」との隣接関係の喝破を含め、唸らせられる議論の展開が続出で、久しぶりに堪能できた四方田本でした。


・他にへえ確かにな。と思ったのは、大学生に「かわいい」についてアンケートした結果、自分の持ち物を「かわいいもの」とする意見が多かったのとは裏腹に、自らの身体部位を「かわいいもの」として挙げた人がほとんどいなかった、という話だ。


・そりゃそうだろう、という気がする話なのだけれど、このエピソードを「そりゃそうだろう」と感じる私たちの感性には、どのようなイデオロギーが根付いているのだろうか。ここを考えることは、「かわいい」という現象を考える際の大きなポイントになるのではないか、と思った。今日の資本主義経済と「かわいい」の関係を経由して、「資本主義」と自己の身体の疎外化の関係の現代的なありようの、一つの側面を浮かび上がらせる議論に発展できるんじゃないだろうか、ということである。


・ふと気になったことは、あのネズミの国についてだ(ディズニーランドのことね・笑)。四方田の議論で、「ディズニー」についての言及がほとんどなかったことが、どうにも気になったのだ。ディズニーから吹っかけられる、ほとんどヤクザの因縁と選ぶところがない版権的な問題を考慮して避けたのかもしれないと、読んでいるときは思っていた。


・だけど、そうではなくむしろ、ここにあったのは、ある種の抑圧ではないかという気もする。私たちは、あのネズミとその仲間たち(こんなとこで名前ぐらい出しても、因縁吹っかけられることないんだろうけどさ・笑)を(無意識的に)意識的の外に追いやることで、今日的な「かわいい」現象について雄弁に語ることができる。そういう文化的な布置にいるんじゃないだろうか。もっとおおざっぱに言うと、ネズミとその仲間たちと「かわいい」との関係は、結構微妙なポイントなんじゃないだろうか、という気がするのだ。


・だって、ネズミとその仲間たちのことを「かわいい」って言う言葉で、あまり形容しなくねえ?と、急に馴れ馴れしい口調になってみたけど。ともあれ、「ディズニー」はもはや、文化的なコード化が強固になされているから、というのが大きな理由であるかもしれないけれど、このへんも今後考察を深めるポイントなんじなかろうかと、十年近くネズミの王国に足を踏み入れていない僕は考えたのでした。


「かわいい」論 (ちくま新書)

「かわいい」論 (ちくま新書)