読了本

高橋哲哉靖国問題』(ちくま新書

・二十四万部も売れているんだそうだ。凄いな。

・「歴史認識」「文化」などの枠組みから、「靖国」がどのような「問題」であるかを明晰に論じた書。文献引用の多さが読んでいてまどろっこしさを感じさせるものの、難解なところはなく、主張がはっきりと伝わるように論理もきっちりと作られている。


・とは言え、「靖国」を「哲学で斬る」という帯カバーはやや羊頭狗肉の感が強かった。いや、例えば江藤淳の「文化論」的な靖国観を論じた章で、江藤のディスクールが混乱に陥るポイントをうまく探り当てる手つきというのは、高橋の出自が「脱構築」であったことを論理の肉づきにおいてはっきりと感じさせたりはする。その意味では、まあ「哲学」という言葉は、理解できなくもない。


・追悼や哀悼は、それが集団的になればなるほど「政治性」を帯びざるを得ない。その集団が「国家」的な規模になったとき、新たな戦争に向けて死者を顕彰するという事態は避けられないのではないか。高橋が危惧するのはそうした事態であり、その観点から、「靖国」に代わる新たな戦没者追悼施設も「第二の靖国化」が危惧される以上、建設を否定されざるをえない、ということになる。


・正直なところ戦没者追悼施設そのものを否定する高橋の主張は自分と共有できるものではないが、彼の理屈は分からなくはない(右傾化がはっきりと見て取れる日本の現状を踏まえれば、そういう結論は致し方あるまい)。


・だが、読んでいてどうにも疑問に感じてしまったのは、「政治」性を一切漂白した<喪>というのを、あるべき「追悼」の姿として高橋が考えているように思えてしまった点だ。 「政治」性を一切漂白した<喪>?「集団」の規模がどうであろうと、私たちが生きる社会において、<喪>とはいつでも「政治」的なものではなかったか。難しい話をしているのではない。今まで参列した葬式の全てが、抜き差しがたく「政治」的であったことを思い返してみればいいのだ。そこに集まったものの間で、金とかエゴとかの問題があっちにもこっちにも見てとれなかったか。なんなら、今ワイドショーを賑わしている太った兄弟の確執を思い出しても良いだろう。少なくとも私には、「政治性」抜きに<喪>というものをイメージするのは、具体的にも抽象的にも全く不可能である。


・だとすると、この本でさらに展開させるべきだったのは、<喪>と「政治性」の関係はいかにあるべきかということについての、原理的(つまりは「哲学」的な)な思考ではなかったか。そこがこの本には決定的に欠けているのである。「死者」の魂を鎮めるものとして<喪>というのはあるはずなのに、死者に黙させようとはせず、その儀式の真っ最中に実に現世的な「政治」に精を出す「生者」としての我々。いや実は、「遺族会」とかあのへんの人たちのことって、「右傾化」とか「自民党の票集め」とかそういう(カッコ抜きの)政治的な文脈じゃなくって、いま述べたような「葬式」における「庶民」の「イカにもな庶民的な感覚」(って変な言い方だけど)みたいなものとセットで考えた方が良いんじゃないのと、この本を読んで考えてしまったのだ。極めて良心的なモチーフで書かれているこの本の主張は、二十四万部売れようがその層に届かないんじゃないかなあと感じられてしまった、というわけだ。そして、「死者」との距離をなかなか測ることのできない彼/彼女たち(そして、もちろん私たち)に言葉を届けるためには、先に述べたような<喪>についての思考がやはり必要だったと思うのである。




靖国問題 (ちくま新書)

靖国問題 (ちくま新書)