古代帝國軍の思い出・3

菊地成孔の本の話からカルト集団の話になってしまったが、実は以前から、カルト的な「陰謀論陰謀史観)」が成立する前提条件とは何か?、みたいなことをずっと考えていたのですよ。だけどその一方で最近は、この問いの立て方はどうも間違っていたのではないか、と省みたりもしているんですね。今日はそのへんのことを。


・言うまでもなく、「陰謀論陰謀史観)が成立する前提条件とは何か?」という問いの立て方は、「陰謀論陰謀史観)的な発想や言説は、ある特殊な環境のみに成り立つものである」、という先入観に基づいている。だが、今日の世界のありようを見るにつけ、「陰謀論陰謀史観)」は「カルト」的な領域に限定されるものではなく、「非カルト」な領域においても星野勘太郎ふうに言えば「ビッシビシ」(プロレス・ネタのエントリだからあえて使う。しかも微妙に古い。しかも全然流行らなかった・笑)跋扈している気がしてならないのである。


・すなわち、「トンデモ本」のような怪しげなものだけではなく、大部数を発行している新聞や雑誌や書籍などといった一般的な言説領域においても、「陰謀論陰謀史観)」っぽいディスクールが溢れかえってはいないか。そしてさらに、選挙で3000票獲得する程度の、ブッ飛んだ飛沫候補の政見放送のみならず、国政レヴェルの「公」の領域においても、「陰謀論陰謀史観)」っぽい発言が、何の「検閲」もなく(フロイト的な意味での「検閲」ね)タレ流されてはいないか。これって結構ヤバいんじゃないのー?、ってなんとなく思っているのでありますよ。


・何の話をしたいのかといえば、これまた微妙に古いが安部晋三の「NHK問題」の際の発言についてである。ホリエモン騒動ですっかり忘れ去られた「検閲」(こちらは一般的な意味での「検閲」ね)問題であるが、あの時彼は、「自分の北朝鮮への強硬姿勢を良く思わない誰かが、自分を陥れようとしている。これは陰謀だ。」みたいなことを言っていた。それを聞いたとき、事実がどうだったかとは別のレヴェルで、僕はもの凄く強い違和感を感じざるを得なかったのである。


・だってさあ、「政治」っていうのはそもそものところ、ニコニコと微笑を絶やさない「無垢」な人たちがいっぱい集まったところでなされるコミュニケーション過程などでは決してないわけで、魑魅魍魎の伏魔殿と言うか、陰謀やら謀略やら裏切りやらが跋扈する、そういうヤクザな世界なわけじゃないですか。クリーンな政治こそが今日求められている? 馬鹿を言っちゃあいけないよ。「政治」というものの独特の魅力は、グレーに彩られた人間関係のコクに総てがあるに決まっているじゃないか。


・僕たちが憑かれたように「政治」に対して激しく関心を持つのは(これは国政レヴェルの「政治」に限定されない。友人関係や恋人関係における「政治」でも、家族関係における「政治」でも、職場における「政治」でも何でもいい)、「政治」には人間誰しもが持つ「いかがわしさ」が溢れんばかりに漲っているからじゃなかったか?「政治」が原義的に、二人以上の者が集まった際になされる利害調整であるのならば、「政治」を行っている人の裏側には「いかがわしさ」がいつでもぺたりと貼られているに決まっているではないか、ということである。


・「政治」とはそもそもそうしたものであるにもかかわらず、「陰謀にハメられた」みたいな発言をした安部氏を見て、「私(だけ)は下らない陰謀とは無縁で、ドス黒いものなんぞはを腹の中には一切有していない無垢な存在だ」と自分自身を見立ているように嗅ぎ取られてしまって、それってなんだか「政治」の業を弁えていない発言、すなわち「政治家」失格の発言であるし、さらに言ってしまえばなんと言うか、「子ども」の発想だよなあ、と思ってしまったのである。


・なぜならば、「子ども」とは以下のように定義づけられる存在だからである。以下は内田樹の定義。



「私」は無垢であり、邪悪で協力なものが「外部」にあって、「私」の自己実現や自己認識を妨害している。そういう話型で「自分についての物語」を編み上げようとしている人間は、老若男女を問わず、みんな「子ども」だ。(『期間限定の思想』・晶文社

・要するに、安部晋三の発言はみごとなまでにこの定義をなぞってしまっていたのだ。僕はなんと、「政治家とは子どもの見本にならなくてはいけない」と本気で信じている人間だ。出来の悪い人生訓を垂れる俳優やらタレントよりも、政治家こそが「子ども」にとっての「大人」のモデルとなるべく、自らを律しなくてはならない。そう考えている。それだからこそ、僕のとって安部氏の発言は極めて残念なものだったのだ(いや別に、彼に何かを期待していたわけじゃないんですけどね・笑)。


・ちなみにこの「子ども」の定義は、「カルト」の人たちの心的傾向にも見事に当てはまっている。さらに、「カルト」的な「陰謀論陰謀史観)」とは、「無垢な<私>」と「邪悪な外部」という二元論的なディスクールの型によって語られる歴史記述であったことも、この内田の言葉から思いを馳せるべきだろう。


・というわけで、カルトチックな「陰謀論陰謀史観)」的なディスコースが普通に流通している今日の社会って、要するにみんな「子ども」になっちゃったってことなんですね。というツマラナイ結論に達してしまったわけである。社会(他者)の不確実性に耐えられなくなって、みんな「子ども」になっちゃいましたって、要するにこれ、大澤真幸ふうに言えば「第三の審級」の機能不全ってことだし、ラカン用語で言えば、「大文字の<父>の不在」とか、イカにもな話ですもんね(笑)。せっかくの土曜の午後をこんな御託で費やした自分にも呆れ果ててしまう。いやはや。


・「陰謀論陰謀史観)」的なイデオロギーが、日本以上にガンガン跋扈している社会とはどこだろうか? 北朝鮮? いや北朝鮮がそうであるのはもちろん確かなのだが、どうやら「アラブ」社会というのもそうらしいのだ。というわけで、ちょっと古いが下の本を現在読書中。プロレスから「カルト」へ、そして「アラブ」社会に転じるこのカテゴリー(次回から新たなカテゴリーに設定します)。自らの言説がカルト臭くならんよう、気をつけます。



現代アラブの社会思想 (講談社現代新書)

現代アラブの社会思想 (講談社現代新書)