菊地成孔『南米のエリザベス・テーラー』


・エレガンだのグルマンだのドレスアップだのとか、そういう印象を強く醸し出しながら、結局のところ菊地成孔の本質は「安っぽさ」にある。どうして誰もそれを指摘しないのか。そもそものところだね。本人のルックスとか服の趣味とかMCの話し方とか、「安っぽさ」に漲っているじゃないか。ポン引き的な、とでも言うかさ。


・『南米のエリザベス・テーラー』。そうした菊地の本質を余すところなく伝えるアルバムである。菊地のサックス(ヴォーカル)だけでなく、フランス語のナレーションも、バンドネオンの演奏も、とにかくウソ臭くて、「安っぽさ」全開である。ここまで「安っぽさ」が露呈しているということは、持って生まれた資質ということ以上に、アーティストとして意識的だと考えるべきだろう。そして、ここまで「安っぽさ」を溢れさせようとしている菊地は、なまなかなものではない、と思うのだ。このアルバムでは、「安っぽさ」がみごとに批評性にまで昇華されているのである、と感じられたのだ。


・だが、そもそものところ、「安っぽさ」とは原理的にどのように生成されるものなのか。自分の属するクラス(階層)よりアッパー・クラスに入り込み、その場に自然と馴染もうとするものの、努力して馴染もうとしてしまっているのがどうしても隠し切れず、染みついた「体臭」として自分の出自階層の「空気」を辺りに発散させてしまう、その結果として表われるのが「安っぽさ」である。


・この「安っぽさ」とは、しかしながら、あなたが「日本人」である限り、どんなに忌避したくとも決して逃れられるものではない。なぜなら「日本人」とは、「西洋」に対して下位の位置に甘んじなくてはならなくてはならないことを宿命づけられたエスニシティであるからだ。だとすれば、私たちは、「日本人」である限り、どんなに陰ながらの努力(陰ながらではない努力が話にならないのは、言うまでもない)を積んだところで、「安っぽさ」のアウラ抜きに「西洋」の「文化」の世界の住人になることはできないだろう。そう。「文学」であれ、「絵画」であれ、「クラシック」であれ、「ロック」であれ、そしてもちろん、そう。「ジャズ」であれ。


・「日本人」が「ジャズ」を演奏すること。その「居心地の悪さ」を隠すことなく、意識的にここまで開けっぴろげにした最初のアーティストが、そして、きっちりと戦略を立てた上で批評的に「居心地の悪さ」に対して向き合おうとした最初のアーティストが、おそらく菊地成孔だと僕は思う。いやもう本気で。


・日本人のギャルソンに話し掛けられて、ついドギマギしてしまった。花粉症のくせに、ワインを注がれてグラスをくるくる回してしまった。赤を基調にした、マキシム・ド・パリのような内装の「ゴージャス」なラブホテルに入ってしまった・・・。


・そのときにあなたは「居心地の悪さ」を感じずにはいられない。だが、「居心地の悪さ」をを感じつつも、私たちはフレンチ・レストランに足を運んでしまうのだろうし、ワインの薀蓄を一つでも多く学ぼうとするだろうし、マニエリスティックな内装のラブホテルを愛し続けるのだろう。確かに居心地が悪いのだが、だがしかし同時に、「日本人」だから、その土着的とも言える「安っぽさ」を愛し続けてしまう。そのロジックを超えた私たちの意識のありようを、このアルバムは音として刻み込んでいる。その意味で、実に「リアル」さに満ちたレコードだ。いやもう。皮肉は一切抜きで。しかもこれ、褒めてるんだから(マジで)。


南米のエリザベス・テーラー(DVD付)

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