辻井喬『父の肖像』(新潮社)


・というわけで「コクド」である。タイムリーにも野間文芸賞も受賞したし、ワイドショーなんかでこの本が取り上げられることもあるかと思ったら、猪瀬直樹(『ミカドの肖像』の著者)の大活躍で終始してますな。まあ虚実が相容れた形で描かれているから仕方がないのだろうけど、コメントくらいあっても良いのにね。


・「プリンスホテル」の時代が終わって「六本木ヒルズ」の時代になった。そういう時代の変化と、「コクド」の凋落はパラレルであると考えるべきである。猪瀬はあちこちの媒体でそんなことを喋ったり書いたりしているけど、そんな間違った指摘ではないと思うな。「コクド」が提示しようとした「レジャー」のあり方が、現代社会の趣味嗜好に合わなくなった、というのは、いちおうは時代の空気を吸っている者として、説得力のあるものではある。


・とは言え「コクド」である。そもそも、この会社名は異様に過ぎる。「国土」だもんね。他ならぬこの「国土」を商売の基盤にしようとしたということになるわけだが、「コクド」という名は、「不動産業」とも「レジャー産業」とも「観光産業」とも違った何かを、この会社が目指していたことを指し示しているはずだ。


・それが何かを一言で述べるだけの考えはないのだけれど、畏怖を覚えずにはいられない創業者の「気負い」と言うべきものを、「コクド」という会社名から私たちは感じとるべきだと思うのである。


・明確に考えは述べれない、と言ったが、ただ一つ言えることは、「コクド」の創業者である堤康次郎氏の時代というのは、「個人」の立身出世と「家族」の繁栄と「会社」の繁栄と「国家」の繁栄が、一線上にあるものとしてイメージできた時代であったということだ。そうした彼の思考のあり方(イデオロギー)は、この小説の中でも説得力のある形で描かれている。


・そしてそのイデオロギーは、今日の時代には受け入れられなくなったというわけで、「帝国」という比喩を使いながら、「家族経営(ワンマン経営)の弊害」みたいなことが盛んに論じられていたりするのが現状だ。でも、康次郎氏(そして同時代を生きた多くの日本人)の憑かれた、そうした思考・イデオロギー抜きに、今日の「日本」の「発展」や「繁栄」がなかったのは確かなのであり、そのイデオロギーが凋落した以上、今までと同じ日本の「発展」や「繁栄」は、もはやありえない、ということも、また確かであろう。「コクド」の凋落を云々するのなら、ここまでの射程をきちんと見据えた上で論じて欲しいのだが、どうもそうした論じられ方はあまりされていないようだ。


・「個人」の立身出世と「家族」の繁栄と「会社」の繁栄と「国家」の繁栄が、一線上にあるという思考様式。それを「近代」的な思考様式と呼ぶことが出来ると思うが、これが力を持ったのは、それが万人に共有できる思考形式であったからにほかならない。サラリーマンでも小さな街工場の経営者でも農家の跡取り息子でも、そして果ては康次郎氏のような大企業の経営者でも、程度の差こそあれ、同じスタイルの思考をなぞることが出来る、「近代」とはそうした時代であったわけである。


・つまり、「近代」においては、各個人の各個人における「成功」が、(程度の差を抜きにすれば)同型のモデルになっていたということになるが、翻って考えてみよう。今日の社会はどうなっているのか。ライブドアの社長なんかをぱっと頭の中にイメージしたりすれば、共有型の「成功」モデルが、今日の社会に決定的に欠けていることに気付かされるだろう。その欠如の意味を、きっちりと読者(視聴者)に考えさせるだけの批評性を、「コクド」を論じるのであれば持っておくべきだと、僕は思う。その「欠如」が私たちにとって「幸福」なのか「不幸」なのかを問い質すような批評性を、である。


・小説に話を戻そう。「父殺し」、「母恋い」というオーソドックスなテーマを有しているにもかかわらず、話者の視点の不安定さがなかなか奇妙な読書の愉しみをもたらす。長期連載をまとめた結果、きちんとした構造的配慮がなされていないか、とも思ったが、伏線も丁寧に張り巡らされており、コクのある読書の時間を満喫できる、そうした一冊になっているのは間違いない。


・現在、渦中の人である堤義明(小説の中では清明っていう名前になっているけど)について言えば、存在感は薄いんだが、「嫉妬深さ」の血を父から受け継いだとか、婦女暴行未遂を父に揉み消してもらったとか、そこはかとなく悪意が満ちた描かれ方をされていて、世俗的な興味も満たしてくれますな。


父の肖像

父の肖像