北田暁大『嗤う日本の「ナショナリズム」』(NHK出版)


・「笑い」を支える「お約束」を『オレたちひょうきん族』が破壊した後、「芸」がないにもかかわらず「タレント」になった「タレント」(いや、「芸」がないからこそ「タレント」になった「タレント」)がテレビ番組を跋扈するようになった。


・結果、「番組」に「ツッコミ」を入れながらその番組に没入する(「アイロニカルな没入」)視聴のありかたが一般化し、また一方で、「感動をありがとう!」的なバラエティー番組(「猿岩石」のヒッチハイクや、「二十四時間テレビ」のマラソンなど)が、これと時を同じくする形で隆盛した・・・、ナンシー関の批評を参照しながら、北田は九十年代以降のテレビ番組のあり方をそのように概観する。


・これは何かに似てはいないか。そう、「2ちゃんねる」である。「2ちゃんねる」もまた、あらゆることを「ネタ」として嘲笑する「アイロニカル」な没入と、「感動をありがとう!」的なロマン主義(『電車男』)を、みごとに同居させている場であるからだ。


・上にまとめた、「お約束」を破壊して以降のテレビ・ヴァラエティーの変容と、2ちゃん的感性を繋げたこの書の議論(三章・四章)は、極めてスリリングで、説得力に富むものである。「社会学」が、今日の「社会」を概括的に説明することを目指す学問であるとすれば、「キワモノ」的な資料体を用いながら、ここでの記述は極めてまっとうな「社会学」であるとも言える。


・この書がもくろむところは、2ちゃん的なシニシズムと『電車男』的ロマン主義が同居する二律背反的な心性が、どのように成立したかを明らかにすることであった。だとすれば、八十年代以降のテレビ(北田の言葉で言えば「純粋テレビ」)と「2ちゃんねる」の関係を論じた三章、四章だけで、じゅうぶん目論見は達成されているはずなのだ。しかし、この書では、一章と二章(と三章の最初)で「連合赤軍」、「糸井重里」、「田中康夫」などが論じられている。そして、その部分の議論と、後半の「テレビ」と「2ちゃんねる」に照準を当てた議論とが、どうにも繋がりが悪いように感じられて仕方がないのであった。


・「連合赤軍」や「糸井重里」などを論及対象とするのは、「反省」という観点を導入しようというねらいに基づき、筆者が判断したことである。「政治」の季節に猛威を振るった「反省」がどのようにして「純粋テレビ」を享受する「シニシズム」に転じたのか。「連合赤軍」や「糸井重里」(政治運動家からコピー・ライターに転身)は、そこを明らかにするための要諦とされたわけである。


・この筆者の判断に対する評価は正負をともなうと私は考える。一章と二章について、今日の「シニシズム」の歴史性に光を当てることに成功していると、そういう形で評価できなくはないと思うのだが、しかしその一方、一章と二章の存在によって、資料体(論及対象)をこの本はどういう基準で区切っているのかというのが曖昧になってしまっていて、資料選択の恣意性を強く感じずにはいられないのである。


・こういうのを「釈迦に説法」というのは十分承知しているのだが、「メディアはメッセージである」以上、「言説」を分析対象とする前半と、「テレビ」と「ネット」という「(電子)メディア」を分析対象とする後半とを接続する際、「(電子)メディア」がどういう形で変数として機能するか、厳密な考察が必要ではなかったか。「メディア研究」と呼べるような実証性を担保していないと、筆者は「あとがき」で「反省」を述べているが(もう少し簡単な言い方で言えば良いものを!)、反省を述べれば良い、というものでもない。それこそこの本の全体性を「担保」するためには、それがどうしても必要だったの思うのだ。


・そして、「(電子)メディア」の媒介性を、唯物論のレヴェルにおいて考察しようという構えが欠如した結果として、どういう角度からこの本を読めば良いのか、読者は戸惑ってしまうはずなのである。私も個人的に、この書を「メディア論」として読んでよいのか、「コミュニケーション論」として読んでよいのか、それとも「言説分析」の書と読んでよいのか、見当がつかなかった。この本の「ジャンル」がどのようなものなのか、はっきりとしないままに読書が強いられたということだ。


・自分の論及がどういう意味を持つかについて繊細に過ぎるほどにコメントを重ねる(「終章」と「あとがき」)筆者にしては、これは読者に対するサーヴィスをあまりに欠いていると思う。お前は社会学の門外漢だからとは言わせない。だって、「NHKブックス」ですぜ、旦那(って誰に言っているんだ・笑)。


・だが、一章と二章がつまらないわけではないとは思う。「内容」が後景に追いやられて「形式」が特出した「政治」運動であるという点に、「連合赤軍」の特殊性が見出せるという指摘は、なかなか説得力のあるものであった。また、糸井重里津村喬という、一見対極にあるようなイデオローグについて、「メディア論」・「記号論」的発想を共有していたという点で同列に置くことができるのではないかというのも、「政治」の熱狂が終わったあとの若者文化を再考する、有効な手がかりになると思う。つまり、先に述べたような瑕を含むものの、刺激的な指摘が豊穣な書であることは間違いない。この豊穣さから、私たちは何を引き出すか。次に来る者へ渡されるべきバトンとして読まれる書ではないかと思った。


嗤う日本の「ナショナリズム」 (NHKブックス)

嗤う日本の「ナショナリズム」 (NHKブックス)