読了本

大澤真幸『現実の向こう』(春秋社)


・「現実」の対立項となる語が、「理想」、「虚構」となって、今度は「不可能」になると予言する書。大澤は最近ずっと、「多重人格」者のパーソナリティ(という語が適切だとは思わないが)に着目していたけど、「多重人格」者に端的に象徴される時代性というのを、「不可能」の時代、という言葉で表したいらしい。



・「多重人格」とは、「固有名」に剰余が一切ない人格のありようなわけだが、それは言い換えれば、「表層」と「深さ」のセットという形で構造化されていない人格、ということになり、言うまでもなくそれは、東浩紀のいう「動物化」した人格、ということになる。



・そう。そんな変わってないんだよね、東浩紀の言っていることと。そのことは大澤本人も認めていて、論の大きなモチーフとして、「動物化」とは別の形(言葉)で今日の時代を説明しようとしたい、というのがあったようだ。



・だがそれにしても。ちょっと気になるのは、大澤の説明体系も、東の説明体系も、メチャクチャ汎用性の高いものになっているところにあるんだよな。フロイトラカンの理論は、「近代」という時代を全て説明しきってしまう(かのように感じられる)わけだけど、それと同じくらいに汎用性の高い理論、つまり、ジベタリアン(ってもう死語か)についての説明からネット社会についての説明まで適用可能な、「現在」を総体として説明しきってしまうような理論を提示しようとしているわけですよね、この二人って。


・で、困るのはね。この種の「全体」志向の理論って、反論が全く不可能なわけですよ。認めるか認めないかの、二者択一しかない感じ。この二人の言説の持つ特徴を、その意味で、「誤謬ゼロ感」と呼べば良いと僕は思うのだけど、それって要するに「対話」に開かれていない、ということであって、つまりは「批評」と呼ぶに値しない言説であると、保守派の僕は思ってしまうのでした。


・(東の本を噛み砕いて言えば)「対話」という実践が、価値あるものと見なされない社会が、「動物化」した社会の大きな特徴の一つである。だとすれば、東―大澤理論の言説形態というのは、「対話」を志向していない、という点において、「動物化」した社会におけるメッセージ(携帯メールに端的に象徴される、コンタクトばかりを志向したメッセージ)の高級バージョン、ということになりはしないか。もしそうだとすると、東や大澤が、「動物化」した社会や「不可能の時代」というものに対し、価値判断を保留する、というのも頷ける話である・・・、これって穿った見方ということになるかな?