「誰も知らない」


 
 北野武が以前どこかでこんなエピソードを紹介していた。『ソナチネ』の撮影のとき、北野は、演技経験のないコメディアンを殺し屋の役に配した。「まあとにかく普段のお前と一緒の感じでやってくれ」と、撮影前に何度も伝えたのにもかかわらず、そのコメディアンは、撮影が始まると、何度も何度も<いかにも悪い奴の顔>を作ってしまって困った、ということだった。カットの声が掛かり、いや普段の顔で良いんだからと北野が注意を与えても、その男はなかなか悪人の顔になろうとするのを止めてくれなかったのだそうだ。



 
 写真の場合であろうが、ヴィデオの場合であろうが、映画の場合であろうが、キャメラのレンズを向けられた時、私たちは、その映像を目の当たりにするであろう、名前も顔も知ることのできない匿名の誰かの規範意識を先取りして、それをトレースすることで自らの振る舞いの形を決めるという、奇妙な作業を強いられることになる(だがそれにしても、その振る舞いこそが規範に則ったものだとは、いったいいつ、そして誰が決定したのだろうか?)。誰であろうが、この意識の「こわばり」から自由ではいることは不可能であろう。カメラが「権力装置」だとはしばしば言われることである。だがそれは、キャメラがマス・メディアにおける告発装置であるからでも、弱者を晒し者にすることで観る者にカタルシスを与えるスペクタクルの生成装置であるからでもない。レンズを差し向けた者すべてを、ある種の規律の実践の内側に取り込むことになるから、使い捨てカメラから果ては映画の撮影機材に至るまで、あらゆるキャメラは「権力装置」と呼ばれてしかるべきなのだ。



 
 是枝裕和の二作目、「ワンダフルライフ」を観たとき、この監督は、キャメラが必然として抱え込むそうした業に、どれだけ意識的であるのだろうかという疑問を持った。死んだ者に、天国に行ってもらう前に一つだけ人生の大切な思い出を選んでもらう。その思い出を映画として再現して、本人にそれを見てもらい、死者を天国へと送り出してゆく者たちの物語・・・。



 
 だが、「一番大切な思い出」の映像はおそらく、リプレゼンテーション(再現前化)と<記憶>との齟齬ばかりを前景化させてしまうだろうし、結果として、その映像を観た当人は、強い困惑や違和感に満たされることになるはずだ。なるほど、強烈な思い出が、私たちの中で、しばしば映像という形で記憶されることになるのは確かである。しかし、その「思い出」自体が、映像とそのままぴたりと重なるなどということは、とうてい考えることはできない。つまり、決して忘れることのできない思い出というものは、蜜のように甘美なものであろうが、痛々しいほどの悔恨の情に満ち溢れたものであろうが、視覚表象だけに集約されれば事足りるような代物などでは決してないはずであり、むしろそれは、身体も精神も含めて、<私>の感覚の総てが動員されながら<いま>に回帰してくる、とてつもなく痛切な<全体>の経験としてあるはずなのだ。だから私たちは、自分の身の上をすでに通り過ぎたはずの何年も前の出来事に対して、精神や身体を突如として激しく震わすことがあるのであって、そしてそこにこそ、「記憶」や「思い出」の本質があるように思われてならないのである。



 
 だとすると、映画に登場するような年老いた者にとっての「人生で一番大切な思い出」ということになれば、そうしようと当人が意識せずとも、思い出した者が引き受けることとなる震えの経験は、余人の想像のとうてい及ばないものになるだろう。私たちはここで不可知論者にならざるを得ない。いや、さらに言えば、私たちはこうした局面では積極的に、不可知論者になるべきだと思うのである。例えばそう、自分は第四階級に対して無縁の衆上の一人であると「宣言」した有島武郎のように。少なくとも私にとって、他者に対する「倫理」とはそのようなものだ。



 
 そうした形での他者に対する畏怖の念を欠き、映像がそのまま「記憶」を代理するなどという楽天的な信憑のもとで、心地良いドラマが滑らかに進行する「ワンダフルライフ」という映画に対して、私は強い苛立ちを覚えざるを得なかった。どうしてこの監督は、映像に対する諦念をこうまで持たないでいられるのか、と。



 
 映像とは、現実そのものではない。例えば、痛ましい思い出が映像として記憶されているというのは、私たちにとってその思い出が受け入れ可能になるよう、ある種の防衛機制が働いている、ということを意味する。つねに、そしてすでに、そうした改鋳作業のもとにあるからこそ、映像とは「表象」、もしくは「媒介」と呼ばれるべきなのではなかったか。さきにキャメラの業、という言い方をした。それは言うまでもなく、今述べたような媒介性のことなのだが、是枝裕和という人は、映像が媒介であることに(媒介にしか過ぎないことに)意識的に目を閉ざして、映画を撮り続けている監督なのではないか・・・、その疑いは、この『誰も知らない』という新作を観て確信に変わった、と言わざるを得なかったのだが・・・・・・。



 
 ここまで打って疲れた。このままだと原稿用紙十枚以上になるんじゃん。。。。『誰も知らない』の論に入ってないし。続きは明日以降。「名も知らず顔も見えない匿名の誰かの意識を先取りし」って、このへんの議論は、大沢真幸の「第三の審級」と繋がるんだろうなあ、と思うんだけど、まあそれはいずれ気が向いたときにでも。