松浦寿輝『半島』


・その人物が「主人公」であるならば当然のこととして持っているはずの事象(もしくは、最終的には獲得することになるはずの事象)、たとえば、外の世界に向けての何らかの主張だとか、どこへ自分は進んでゆくべきかを決断する力だとかといった、つまりは「主人公」の「主体性」をあらわすであろうそういったものを、松浦寿輝の小説の主人公は、つねに、そしてすでに、跡形もないくらいに失ってしまっている。それどころか、小説のどの部分で、というのはどうにもはっきりとしないのだが、読みすすめていってふいに気がつくと、主人公の存在ををふちどる輪郭線そのものが、おそろしく曖昧にぼやけてしまっているのだ。あたかも外界に溶け込んでいってしまったかのように。松浦はそうした主体喪失の過程を、実に丹念に描く。



・「主体性の喪失」というのは、例えば阿部和重とか奥泉光など、いわゆる「ポスト・モダン」の文学者が好んで描いてきたモチーフであると言えるのだが、松浦がいくら「ポスト・モダン」を代表する批評家の一人だからといって、彼の小説作品をその系統に連ねるわけにはいかないだろう。それは、言うまでもなく、文体においても物語内容においても、この時代にあえて唯美的なスタイルに淫してみせているという大胆さ(ふてぶてしさ?)にこそ彼の小説家としての肝があるからにほかならなず、そしてこの新しい作品においても、そうした「時代錯誤」ぶりはみごとなまでに全開である。読者は存分に、この作者だけが醸し出すことのできる独特の世界を堪能することになるだろう。



・さきほど「溶け込んでいく」という言葉を比喩として用いたが、実際、そうした存在の溶解感を表現するために松浦の小説でしばしば導き入れられるのが、「水」のイメージであった。「幽」や「巴」の舞台は川沿いであったし、また、芥川賞を受賞した「花腐し」の冒頭も、雨についての記憶から始まっていた。そして、本作の舞台は「島」である。「水」で周囲をかこまれた領域が舞台なのであるから、まさに読者の期待に背くことのない、「松浦」ワールドが展開されてしかるべき舞台設定・・・、というわけなのだが・・・・・・・。



・まあ楽しめたには楽しめたんだけど、なぜかイマひとつだった気がしないでもない・・・。なんでだろう?明日以降考えたい。


半島

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