読了

*[読書]阿部和重シンセミア」読了

先週の日曜日から取り掛かりはじめて、昨晩読了。感想・・・っつーか断片的なメモで。


・この作家は「描写」ができない人なんだな、と改めて実感。舞城王太郎の小説には描写がない。みたいなことを昔斉藤環が言ってた気がするけど、描写ができないっていうのは現代作家のひとつの傾向としてあるんじゃなかろうか。


「雨に滲む街の明かり」とか「寄せては返す波」とか「風に吹かれて細かく揺らぐ木々の葉」でもまあなんでも良いんだけど、そうした外界が描かれると自ずとそれが誰かの「内面」を象徴するものとして機能してしまう。それが「描写」というものの本質だとするならば、そうした自動化された安易な手法に対してノンを突きつけるラディカリズムこそが、「現代文学」の存在意義である・・・っつーことは分らないでもないんだが、でもここまで「説明」的な記述で埋め尽くされると、「解釈」の余地が残らない。というのは確かなことだと思う。


阿部和重の小説は「解釈」に向かない。それはこの人の小説を読むとそのテーマが極めてクリアな形で伝わるということと表裏一体だと思う。「ニッポニアニッポン」の「トキ=天皇」っていう図式をあの小説から読み解けない人は皆無だろうし、「シンセミア」を読んで、ネット社会における監視社会の寓意を感じない人もまた皆無だろう。


・あまりにテーマが明快に伝わりすぎて「解釈」には向かない小説。こういう小説を書き続けた人として安部公房がいる。記号が豊穣なようで豊穣じゃない・・。そういう言い方をすれば良いのだろうか?


・文句付けてるみたいだけど、読んでいるときは凄いのめり込んだし、「現代文学」の傾向を考えるためには手に取るべき小説であることは間違いない。他にもこの人の「妄想」的なエクリチュールがどういう形で(ネット化された)「社会」に関連したものであるとか、考えるべきテーマはたくさんあるだろう。


・今思いついたこと。「妄想」的なエクリチュールは「ニッポニアニッポン」でも見られたものだけど、それが必ず「三人称」という形式(それは本来「妄想」には向かない形式だろう)において書き付けられるのはどうしてだろう?これはちょっと論文にもなりそうなテーマかも。


・このまま矢作俊彦「ららら科学の子」に突入。この本も厚いぞ。「シンセミア」についてはまた順次感想をアップしてくはず。