『空中庭園』

・「何事もつつみ隠さず、タブーを作らず」をモットーにした一家を描いた映画。そのモットーが「家族」に決して開放感を齎さすことはなく、むしろ閉塞感に家族のメンバーは圧せられていく。その閉塞感を象徴するものとして、作中に、「ラブホテル」の部屋(窓のない部屋)というモチーフが持ち込まれているのだが、これはなかなか説得力のあるものだと思った。


小泉今日子が良かった。瑞々しさを全身で表出していた、かつての輝きはもちろんない。後姿を観ると、肩の辺りとか脇の辺りとかがなんとなく丸みを帯びていて、どことなく身体的な重みが感じられた(太った、というのとは少し違う)。そして、何よりアップで映し出されると、そこから見てとれる細かい表情に、「ああ、キョンキョンも年を随分と重ねたんだなあ」と思わずにはいられなかったりする。


・ただなんと言うかこの人、内面的な若さはきちんと保っていると思う。それが演技にもしっかりと現れているように思われたのだ。実際、読売新聞だか朝日新聞だか忘れたが、日曜日の書評欄でこの人の書評を読むことがたまにあるのだが、これが決して悪くなかったりもする。だとすると、外面的な「老い」と内面的な「若さ」の葛藤がリアルに発せられる、そういうオーラを持った女優というポジションでやっていけるんじゃないか。これは一つの「年の重ね方」のモデルとしてはなかなか魅力的なものだ。


・比較として挙げさせてもらえば、例えば黒木瞳。あの人が変なエッセイ集を出してワイドショーで紹介されたとき、その内容のあまりの貧しさに「やめときゃ良いのに」と思わずにはいられなかった。あの人の「若さ」が外面によってしか担保されていないことを、思いっきり露呈してしまった感じがしたのだ。そういうタイプの「年の重ね方」より、小泉今日子の魅力の方が深みがあって、やはり好ましく感じられる。


・内容的な解釈を。「何事もつつみ隠さず、タブーを作らず」という形で家族の関係を構築するのは、なぜ「閉塞感」を齎すのか。「秘密を作らず」ということをルールとして明文化するのは、「家族のメンバーは(良からぬ)秘密を作るに決まっている」ということを前提としてしまっている。つまり、「秘密」を忌避するコミュニケーションのあり方とは、相手への「不信感」をベースにした繋がり方だと言えるのだ。


・「相手は(良からぬ)秘密を作るに決まっている」。「私」が「あなた」ではない以上、それはコミュニケーションにおいて必然として潜在する。だが、それを「不信の種」として名指すことなくおぼろげなものとしてそのままにしておくこと。もし「不信」がわずかに感じられたとしてもそれはしばらくは胸のうちに秘めておくこと。そして、その「不信」がはっきりと露呈してしてしまったら、それをコミュニケーションによって修復させていくこと。「あなた」との関係において「信頼」が生まれるのは、そうした細かい過程の積み重ねによってでしかないはずだ。


・その意味で「コミュニケーション」とは、穴の開いた船底に対処しながら船で航海を続けていくようなものである(ノイラートの船)。物語の終盤、映画の中の一家に生じた亀裂は決定的なもので、母親の誕生日を祝ってどうこうなるものではないのかもしれない。でも、どうこうなるかならないかを決めるのは、神様でも明文化されたルールでもない。そこに集ったものたちのコミュニケーションが、どれだけ細やかなものであるかという一点にしかかかっていないのだ。