確かに

http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/jiken/news/20050505k0000m040148000c.html


・ありえない話ではあるのだが、ここまで(相対的な)「細部」に世論をヒートさせようというのが、よほどありえない話だと思う。


・事故車両に乗り合わせたJR西日本の社員が事後現場を離れた話を含め、この手の話を追求するのは、「会社(員)そのものが、そもそも人命を軽視する体質だった」というのを傍証するため、というわけなのだろう。


・しかし、そうしたロジックは内容レヴェルにおいて一見もっともらしい話を作り上げることになるにしても、言説の(波及)効果としては問題を拡散させることにしかならないはずだ。真の問題は事故が起きてからよりも、事故が起きたこと(もしくは、事故が起きるまでのプロセス)にあるのだから。「普段から心掛けが悪かった」という形で、イヤーな感じの観念論に話の流れが移行してしまい、クールなスタンスから事態を検討しようとする目を曇らせはしないか。その結果、問題の本質、というか、大きなところを見逃すことに繋がりはしないか。この時間の記者会見というのは、異様に過ぎる。


・さらに問題なのは、こうした「批判」のロジックが、「問題」を起こした側に反省を促すことにならないと思われることだ。どういうことか。


・このロジックに、思い当たる節がある人は多いはずだ。そう、これは生徒に嫌われる「教師」の説教のロジックそのままなのである。


・オマエはこういう問題を起こしたけどなあ、でもな、前からオレは分かっていたんだよ。遅刻が多いこととか授業中寝ていることとか、そういうオマエをオレは前から見ててだな、こうなるだろうなあって分かってたんだよ。知ってたか?っていうアレだ。


・こちらとしてはとりあえず、話のはじめとしては怒られてもっともなことで説教されているから、ただ黙っているしかない。だが、その沈黙は、もう二度とこんなことをしません、という反省の証では決してない。そりゃあ確かに悪いことしただけどさ、それとコレとは話が違うだろうがぁ!、という思いをぐつぐつと煮えたぎらせているだけであり、「ゴメンよ。先生。オレ、もうこんなこと二度としないよ。」とか、「先生、ホントに俺のことを考えてくれてたんだ。」なんて気持ちには、絶対になっていない。っつーか、なれるはずがない。で、そんな感じでブーたれていると、「何だ、オマエその顔は?!反省してんのかあ!?」という循環地獄に陥っていく・・・。


・「いかに効果的に怒るか」をマスターしないと、「反省」という効果は望めない。私が「学校」という場で学ぶことのできたもっとも有益な知識の一つだ。と言うか、「学校」とは、教師を反面教師としてそういうことを学ぶ場ではなかったか。新聞記者のみなさんはそういうことをきちんと「学校」で学ぶことなく社会人になられてしまったらしい。御家庭でどのように子供と接しておられるのか、ちょっと心配してしまう。


・いや、冗談はさておき、いたずらに感情を煽るよりも、こうした事故に際してはきちんと(つまりは効果的に)「企業」に反省を促すことこそが、互いに支え合うことで「社会」を成り立たせている「社会」人として担わなくてはいけない役目であると私は思うのだが。これは「学級委員長」的な物言いだろうか?でも、ポケットに手を入れていた云々の話を聞くにつけ(ウチのテレビ壊れてます)、小学校でのホームルーム的な価値観がメディアに蔓延っていることに改めて気づかされ、私はよほど嘆息してしまうのである。「学校」的な価値観って、結構しっかりインストールされているものなんだな。「いま、学校は」なんて嘆き顔でみなさん言っているけど、「学校」ってやっぱすげえやと。ふいに「学校化社会」という宮台真司の言葉を思い出すが話がズレ過ぎだ。


・二度とこういう事故を起こさないにはどうすれば良いか、全ての人が知恵を絞るべきであろう。これに私は間違いなく同意する。だが、「知恵」を絞るためには「知」的でなければいけないのに、絞られている「知」性というものが、どうやらいまのところダメ教師レヴェルであることに暗澹たる気分になって仕方がない、という話でした。