『現代思想四月号 教育現場の変貌』


・現在はてな界隈で話題沸騰中の『ユリイカ』にはあえて手を出さず、久しぶりに『現代思想』を購入。つらつらと読書中。大内裕和氏のインタビュー(「現代教育の基礎講座」)は、おおむね共感できる内容なのだが、インタビューアーを担当する「大学生」(匿名)の、妙にアタマの冴えている様子が、どうにもウソ臭い。官庁のパンフレットなんかの、Q&Aを読まされている感じと言えば良いのか。


・ただこのインタビュー、妙に因果関係をはっきりとさせた形で「教育現場の変貌」を描いているのには、わずかながら違和感を持った。比喩的に言ってしまえば、ちょっとだけ「陰謀史観」めいた構図になっているんだよな。「教育基本法」にしろ、「人権保護法案」にしろ、それらを「改悪」と名指すのは構わない。だが、その「改悪」を誰が推し進めているのかがはっきりとしていないまま(と言うか、はっきりするものではないのかもしれないが)、長期的な計画を描いた上で「改悪」を推し進めている者がいるかのような記述になっているのを目にすると、どうにも読んでて眉をひそめてしまうのである。


・赤田圭亮氏の論考は、ちょっと仕事上関わる部分の多い話なのでたいへん興味深かった。いやもうなんだかな。今日の教育行政のトップ・ダウン方式ってアレだな。飲み屋でナイター観ているオヤジが球団監督に就任するようなものなんだな。って考えたら、稲葉振一郎氏の次のような言葉を思い出したりした(http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20050224)。


・「教育」とは何かっていうのを、もっとみんな共通認識としてもつべきなんだよな。例えば、「洗脳」と「教育」とは何が違うのか?、とかをきちんと理解すること。そんなの簡単じゃん、と思われるかもしれないが、結構、世間で流通している「教育」のイメージとは、「洗脳」とそんな変わらないんじゃなかろうか。ほら、「教育基本法が変われば教育が変わる」とか「教科書から日本が変わる」とかさあ、「運動」の生理として発話の際にオクターブが上がることについて理解できるにしても、どうしてそこまでみんな「学校」は何でもできる、と思い込むのだろう?「学校」が全能的な存在であるかのような世間的なイメージ(プラス、全能性を発揮していないことに今日の「学校」問題の根幹がある、というイデオロギー)と、いまここにある「学校」で日常的に繰り返されているであろう、「体罰」のようなグロテスクさとの関係。その関係を解きほぐすことは、結構重要なんじゃなかろうか。