帰ってきた「ギョーカイ君」2005


・一部のブログ界で盛り上がっているこの騒動(盛り上がることを炎上って言うの?トラックバック技術すらない僕にはよく分かりませーん・笑)。このまとめでざっくりと概要を掴んだ。


http://d.hatena.ne.jp/SNMR/20050225#p1


・八十年以降の「ギョーカイ」という記号の価値の変動を最近、北田暁大の新刊で読みながら「なるほど、なるほど」などと思いながら学んでいたりするのだが(この本については色々言いたいことがあるんだけど、読了したらじっくり書く)、そういうかつての「ギョーカイ」的なものをめぐって皆で煽ったり煽られたりって感じだな、という印象を僕は持ったのでした。「ギョーカイ君物語」2000年代ヴァージョンですな、これはきっと、って感じで。


・「ギョーカイ君」とは何か?それは、「リーマン」(笑)に対して否定神学的(笑)に差異を刻み込むことによって、アイデンティティの形成をもくろむ何者かのことである。すなわち、積極的に自らのアイデンティティを名指そうとはせず(と言うか、名指すことができず)、ただ「リーマン」に対する否定辞のみによって自己同一性を成立させようというのが、「ギョーカイ君」というものの(実質ならぬ)実質であった。


・そうした形でアイデンティティ(ならぬアイデンティティ)を確立した「ギョーカイ君」、およびその予備軍と、彼(彼女)たちに嫉妬なり羨望なりを覚える「リーマン」(もしくは「パンピー」)層との対立というのは、いわば八十年台以降の「若者」(大学生〜三十台手前)における、一種の内ゲバ的な階級闘争だったと言えるだろう(いやけっこう本気で)。


・そうした階級闘争の戦火は、バブルがはじけて以降、すなわち僕が大学生だった頃にはほとんど消え去っていて、まあ時代の空気として残り火がわずかにあった程度だったと思うのだが、インターネット以降の時代にこういう形で再燃するとは。


・だとすれば、ここはかつて「新人類」と呼ばれた(元?、現?)「ギョーカイ君」の方々が、「ああ。嬉しいねえ。オジサンたちもさあ、そういう気分で盛り上がってたわけよ。でもね、やっぱそういうのってさあ・・・」というような形で、六本木か青山あたりで諭してあげるべきではないのか。この政治闘争にかかわる若者たちの熱狂に必要なのは、「大人の知恵」以外にはないはずなのだから。


・かつての「新人類」たちが、「大人の知恵」を持っているかどうかはさておき(笑)。


付記
トラバってこういうことなのか。簡単じゃーん!(笑)