読了本

・そんな中、本は読んでます。



内田樹『期間限定の思想―「おじさん」的思考〈2〉』(晶文社
パオロ・マッツァリーノ反社会学講座』(イースト・プレス



内田樹は、なんというか、自分の社会的な立ち位置、というものにおいて、今一番影響を受けてしまっています。そうそう、その通りだよ、と頷くこと、しきりです。



・『反社会学講座』について。何らかのアンケートから得られた結果とは、純粋なまでに客観的なものなのか。答えは、ノーです(きっぱりと)。なぜか。第一に、質問には、それ自体に、期待されている答が既に含まれているというのが、世の常だからです。さらにもう一つ、アンケートの数値から何らかの教訓を得ようとするにおいては、出題者の主観が止めどなく入り込んでいってしまうものだから、というのも、大きな理由として挙げられるでしょう。



・例えば、「あなたは人を殺したいと思ったことがありますか?」というアンケートを小学生100人に答えてもらう、とします。すると、多くの小学生は、最近の社会の雰囲気を、もっと言っちゃえば、キレる小学生について、にわか教育評論家として飲み屋あたりでがんがん語りたいという、大人たちに巣食う無意識を、同じく無意識的であれ目敏く感じ取っているはずなので、「俺、この間隣のクラスのタローと睨み合いになったけど、あれがキレた、ちゅうやつだよな」などと考えて、「思ったことがある」、という箇所に、力強くマルをつけるだろう、と想像されます。おそらく、80%くらいの確率で。



・こういう形で、80%の小学生は人を殺したいと思ったことがある、という結果が出て、大人たちは、やはり、思った通りではないかと、最近の小学生の心の闇のどす黒さを確信することができるでしょう。めでたしめでたし。でも、期待の地平をズラしてみれば、全く同じ数値から、全く違う結果を導き出すことができちゃうんですよね。すなわち、小学生たちは殺人衝動に駆られたとしても、ほとんどはきちんと自制することができていて、案外にがまん強い奴らではないかと、こんな風にも言えてしまうわけなのです。そして、そう考えてはいけない理由というのは、どこにもないんです。その意味で、社会的な数値とは、つねに、そして既に解釈である、と言えるのです。



・つまり、アンケートだけに限らず、社会的な数値を得る→教訓を引き出す、というプロセスにおいては、何重にも主観のバイアスが存在しているはずなのですが、下々のものどもは、えてして、数字を見せつけられると、それだけで純粋な客観性が100%確保されている、なーんて思い込んでしまうんですよね。かえすがえすも、困った愚衆たち、と呼ぶにふさわしいやつらなことよ。



・『反社会学講座』は、そういう愚衆に向けた、啓蒙の一冊だといえるのですが、でも、ここでの議論をベタとしてではなく、きちんとネタとして認識できて、笑い飛ばせる程度のリテレーシーがあれば、そもそもいかがわしい「社会学」なんぞには引っ掛からない、というのが実情ではないか、と僕は思ったのでした。筆者のネタを真に受けて、そうか!俺たちは騙されていたんだ!っていうかんじで憤り、パオロ・マッツァリーノの言うことこそが真理である、って思い込む奴がいっぱい出現したら・・・・、と思うと笑うに笑えない冗談なのですが、でも、彼らが愚衆である以上は、そういう事態は絶対に避けられないだろう、と想像されてならないのです。救いがない話ですなぁ。