ジェンダーフリー

http://www.jiyuu-shikan.org/teachers/hattori/0311.html

 

・ 本当にこんな授業やっている方がいらっしゃるのでしょうか?結構な驚きではあるよね。だって、脳科学って、かなりなトンデモだよ?



・ しかし「ジェンダーフリー」教育という話題が、ここまでヒートアップするとは思わなかった。混乱の原因には、ジェンダーフリーを広めようとした側に一定の責任があると思う。「サヨ」だか「フェミ」だか誰だか知らないが、そこは真摯に反省すべき。



・ でもね、反論側もかなりおとなげないというか、教育現場の状況を知らな過ぎるんじゃないの?、とは思うのである。もう何というか、傍から見ているだけで(って教員を生業としている身だから傍から見てるわけでもないんだけど・笑)徒労感を覚えるほど、おとなげない。 



・ 例えば、「はい、みなさん、今日からジェンダーから自由な生き方を模索しましょう!」みたいな感じで教員が舵を取ったところで、生徒のみなさんが「男らしさ」とか「女らしさ」とかを捨ててくれるなんていう事態は、あり得るはずがないのである。だってさ、週一回出来るか出来ないかの授業ペースで、それまで蓄積されてきた文化的な習性から脱却できると思う?それに、そもそもさ、もしもだよ、この世界が、教員の言うことを逐一聞いてくれるような生徒ばかりだったら、援助交際だっていじめだって学級崩壊だって、起きてこなかったわけじゃない? 



・ 冷静に考えて見ましょうよ。生徒っていうのは、本質として、教員の言うことをそのまま受け入れてくれるような存在じゃないんです。だから、「ジェンダーフリー」を教育に取り込もう、としたところで、洗脳的な効果が生じるはずはないんです。「ジェンダーフリー」の「危険性」っていうのがもし問題になるとすれば、共産主義国家あたりから洗脳のノウハウを輸入してジェンダーフリー教育を実践しましょう!、っていうような展開になった場合だけに限ると思うんだけど、違うのかなぁ。



・ そんなわけで、あたかもシャドーボクシングに打ち込んでいらっしゃるようにしか見えない「ジェンダーフリー」反対論者の方々には、にこっと笑って、「安心して下さい!」、と言いたいわけです。あなたたちの息子さんも娘さんも、ほとんどの場合はですね、発情期に達すれば、じゃなかった、お年頃になれば、僕たち教員がどんなにジェンダーフリー教育をしたところでですね、くっだらない雑誌の恋愛特集とかを熱心に読んで、「男らしさ」とか「女らしさ」を学ぶことになるはずなんですから。で、その結果として、ファーストフードでまずい飯食いながらデートなんぞをしたりするでしょうし、安っぽいペアリングとかをお揃いで買ったりするでしょうし、へったくそなセックスにうつつを抜かしたりするはずなんですから。ジェンダーフリーなんて言葉すらなかった時代の若者が(つまり、僕やあなた達が)そうしていたように、ね。



・だからもうね、そんな熱くならなくても大丈夫ですから、落ち着きましょうよ、おとなげないから。みなさんがそんなに熱くなると、ぼくたち教員が高度な洗脳技術を所有しているみたいで、おかしな気分になりますよ。すいません、ウチ、秘密警察じゃないんですよ、みたいな。



・ じゃあ「ジェンダーフリー」教育にはどういう意味があるのか? ちなみに僕の立場としては、「ジェンダーフリー」教育は、積極的になされるべきだと思う。でもそれは、生徒たちが(そして、社会の成員のほとんどが)囚われている「ジェンダー」の縛りをなくすため、などではない。生徒が重荷に感じているであろう、さまざまな「〜らしくあらねばならない」というプレッシャーを相対化するトレーニングとして、適度な効果があると思うからだ。なぜ適度かというと、先から何度も言っているように、ジェンダーがロール・モデルとして社会に一番しっかりと根を下ろしたものである以上、どんなに教員が頑張ったって、「男らしく」・「女らしく」の縛りから生徒が全きに開放されるなんてことはあり得ないから、である。つまり、「ジェンダーフリー教育」は、自分のポジションを振り返ってもらうことについてかなりの効果が期待できて、しかもその効果は、彼(もしくは彼女)がアイデンティファイしているロール・モデルを全壊させちゃうほど強烈なものには絶対にならないという、「ほどほど感」が、良い塩梅に確保されることになると思うのだ。これは、自分のアイデンティティーを相対化する、という知的な営みのための訓練には、ちょうど良いと考えられないだろうか。



・ とにかく、学校なんてそこにいるだけでストレスフルな環境なんだということを、皆さん自分の若かった頃を振り返って、つらつらと思い出してみた方がよいと思う次第なのです。